2014年10月1日水曜日

心得 第六十二 「奉公は任務に忠実なのが第一」

口ごたえも迎合もともに不忠の一項である。

《主君のお側近くにご奉公していると、自分の役目について、あるいはその他のことについて、主君から直々に「こうしたことを、どう考えるか」などとお尋ねを受けることがあるだろう。
こうした場合には、まず自分の考えを一通り申し上げるのだが、これに対して主君が「いや、それはよろしくない。このようにすべきではないか」などと言われ、その御意見が道理に外れていると思った時には、これを謹んで承ったうえで、「それでは、私にも思い違いがあったかと存じます」と申し上げ、後は御機嫌のよい折を見て、またお話するようにすべきである。
そのようにすれば、そのうちにまたお考えが変わり、誤った御判断に陥らずに済むもので、結局は主君の御為にもなるのである。
これに反して、幾度も主君のおことばを返して、「いえ、決してそうではございません」などと遠慮もなく申し上げることは、その家来の立場にもよるが、よほど注意せねばならない。一般にお家の譜代でもない奉公人の場合には、こうした態度は非常に無礼とされているから、いかに主君の御為を思ってのことであろうと、許されぬことである。
そうかといって、主君大言葉が道理に外れていることを承知していながら、その場その場で御機嫌がよければよろしいと思い直して、「さきほど申し上げましたのは私の考え違いでございました。ただいま、よく考えてみましたところ、なるほど殿さまのお考えのとおりで結構と存じ上げます」などと申し上げるなどは、実にこの上ない大不忠、不届きの沙汰である。
およそ奉公を勤める武士としては、主君のお気に入り対などという気持ちを毛頭も持たないのが、第一に大切な心がけなのである。自分に与えられた任務を怠ることなく勤めていればよろしいので、もし、それでもお気に召さぬとあれば、わが身の不運とあきらめるのが奉公を勤める武士の本道というものである。》


主君が自ら気づくように、機が熟すのを待つのが奉公人の本分である。
分を弁え、迎合を避け、その場の雰囲気に左右されることなく、義を貫くことである。
機が熟さず、気に入られなければ不運とあきらめる。そのような自覚を持つことが武士の本道であるという。
侍はそのような自覚を持ち行動する人のことである。
時代が違うとはいえ、忙しく、状況適応を優先し、顧客に迎合している我々には耳の痛い話である。
〈待つこと〉〈自覚する〉ことが今求められているように思う。
〈寺〉という字を持つ、《侍、待、持》には共通するものはなにか?
吉田氏は【解説】で、《目上の人との応答は難しい。ともすれば迎合に走りがちだし、そうなるまいと意識しすぎると、不自然に我を張って悪印象を与え、裏目に出ることが多いものである。封建の身分制の下では、余計その危険が大きかったに違いない。》といっている。
〈義〉というものは、〈あきらめる・すてる〉ことによって、貫くことができる。
キリスト教でも「人その友のために命を捨てる、これより大いなる愛はなし」という。

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