2016年10月1日土曜日

心得 第百十二 「奸臣を除くため一身を捨てよ」 成果主義から成長主義へ

殉死にまさる大忠節とはの一項で「お家に伝わる怨霊の手口」から続くものである。
《このようになれば、例の一人は、まさしく大いなる妖怪であって、お家に害をなす悪魔、主君の敵であることが明らかとなり、家中一同がこぞってこれを憎み、もてあまし者にはするけれども、さて、誰一人として自分がそれを除くために進み出て苦労しようという者は現れない。そして十人中九人までの者が、その者の悪意を訴訟に持ち込み、自分は手を汚すことなく、舌先の勝負でことを決するのにはどうしたらよいかと相談するだけのことである。
そのような手段によっては、とうてい内々のうちに事を処理することはできず、その紛争の内容は、主君のご親戚一門のお耳にも入って、ご一族全体の問題となりさらには重大な成り行きにまで発展し、結局は公儀の御介入まで招かずにはすまなくなる。昔から今に至るまで、大名方のお身でお家の仕置きができかねて、公儀にご迷惑をおかけして、事が落着してからのち、主君のご身分がそのままですんだという例はない。してみれば、事を訴訟沙汰に持ち込むことは、角を矯めようとして牛を殺し、ほこらに住み着いたネズミを退治しようとして社を焼くというたとえのように、主君のお家はつぶれ、家中の大小の奉公人たちはすべて流浪の身となり、何代も続いた大切な名家を古い怨霊のために取りつぶされてしまうという結果となり、誠に無念至極、なんとすることもできぬ状態に陥るのである。
このような場合にこそ、先に述べた主君のご恩を深く受けて、公儀のご禁制さえなければ無益の事ながらも、せめて殉死をしてでもご恩に報いたいものと、一筋に思い詰めている武士が、身命を捨てるご奉公のしどころなのである。そのときは、例の大悪人をとって押さえ、同腹をえぐるなり、首を刎ねるなり、心ゆくばかりにし遂げて始末をつけ我が身は直ちに切腹を遂げ、乱心者の仕業ということにしてしまうのである。このようにすれば、お家騒動とか訴訟騒ぎとなることはまったくなく、主君のご身分に悪影響を及ぼさず、家中一同も安心して、お家は安泰となるのである。これこそは殉死に百倍にも勝る忠、義、勇の三つを兼ね備えた行為であり、末代の武士の手本ともなる大忠節ということができよう。このような決意を固めた武士が、大名方のお側にせめて一人ずつでもいて、我が身命を賭けて主君のおんためを思い、守護し奉っているならば、それは生きた鍾馗大臣と同じことで、悪鬼魔神のような奸智に長けた悪人どもといえども、大いに恐れをなして手を出さず、主君の御ためにならぬ悪逆非道の行為を働くことはできぬものなのである。
このことを、よくよく考えおく必要があろう。


そのような妖怪に対して、《舌先の勝負》を挑んでも、《とうてい内々のうちに事を処理することはできず》、《結局は公儀の御介入まで招かずにはすまなくなる》。そして《何代も続いた大切な名家を古い怨霊のために取りつぶされてしまうという結果と》なる。
この場合こそ、《主君のご恩を深く受けて、公儀のご禁制さえなければ無益の事ながらも、せめて殉死をしてでもご恩に報いたいものと、一筋に思い詰めている武士が、身命を捨てるご奉公のしどころなのである。》
《このような決意を固めた武士が、大名方のお側にせめて一人ずつでもいて、我が身命を賭けて主君のおんためを思い、守護し奉っているならば、それは生きた鍾馗大臣と同じことで、悪鬼魔神のような奸智に長けた悪人どもといえども、大いに恐れをなして手を出さず、主君の御ためにならぬ悪逆非道の行為を働くことはできぬものなのである。》
こうして殉死に勝る大忠節が成り立つというのである。

ここで考えたいのは、「怨霊」なるものである。
アーサー・ケストラー著「機械の中の幽霊」ではないが、社会機構の制度として、運営プログラムの中に組み込まれて、種々の収奪を行っているのがその「怨霊」ではないか。
最後の参考の内容と、『「親米」と「反米」』

今日、ビットコイン取引所社長が不正操作容疑で逮捕された。 

こうした事件が身近に起きている。我々の生活領域は、グローバルに拡大している。
そしてグローバル化によって汚染されている。
日本というイエを守るために、我々に必要な忠節とはどのようなものであろうか。
忠節を尽くす、領域をどこに求めるか、その領域における仕来りは何か、常識、定式は何か、明らかにしなければならないことは多い。

上述の緑字部分「怨霊」以下は、一年前にまとめたものである。
その経緯は、前項で書いた。
ここでは、今勃興しつつある第四次産業革命に対して、日本人として、また日本としてどう対処すべきかを考えてみる。
要するに第二の勤勉革命を起こし、エコノミカルではなく、エコロジカルなブレイクスルーを見つけることである。その基点は身体にある。安心・安全・便利と、安易に考え、ウェアラブル端末を外装し、思考停止で、自己中に陥れば、自家中毒症という生活習慣病を招来することになる。
ガラパゴス化が特異な日本人が特に気をつけなければならない習慣病である。

身体が心であり、心が事実を映し、真実を伝える。心を静かにしていると真実が映る。心を騒がせると波立ち、真実が掴みにくくなる。心を穏やかにした時、心に映るのが、直心、真なのである。
頭(脳)は自分の都合のいいように誤解する。
生活習慣病は中年~高齢者の間で急増しており、WHOは2030年までに、生活習慣病による死亡数が5,500万に増加し、そのうち、心疾患による年間死亡数は2,500万人に、また、がんによる死亡数は1,300万人に増加すると予測しています。
生活習慣病が数多く上げられるのは、生活が習慣化されている現れであり、標準化、単純化、専門化により大量生産されていることを示すものである。
介護の問題で知ることは、日本人であるが故に、日本的な生き方をしているが故の、「苦しみ」「喜び」であることだ。そこに現れるのは、日本人としての姿だ。集団として、いじめも起きている。また一方で、目に見えない助け合いも行われている。
身体が心であり、心は日本語によって維持されてきた。日本語は日本人の身体から発せられた言葉であり、日本人はその心根を五十音図にまとめ、心の音としたのである。
その日本語が西欧語に席巻され、公用語としての地位を奪われようとしている。
それは日本的公の喪失ということになる。
シュンペーターであれば、それは創造的破壊で、新たな価値を帯びて再生すると楽観的な見方をするかもしれないが・・・。
情報化、デジタル化が進展し、デジタル言語が仮想空間を設計し、現実空間に付加価値を供給している今日、日本語の本来の価値は淘汰されていくのではないだろうか。
第四次産業革命が喧伝され、日本が後れていると警鐘を鳴らす人もいる。確かに第四次産業革命に追いつこうとすれば、後れていることになる。
しかし本来の方向を目指すならば、後れていると慌てることはない。
本来とは何か、これをライフキャリアコンサルティングで明らかにしていきたい。
仮設・結論を提示し、その行く末を考えてみる。
物のインターネットが変えられるのは、外部環境だけである。内部環境は身体が守るのである。
しかし、自然治癒力を放棄したとき、自治、主体性を人間は失うことになる。
分を尽くすのだ。天地人、時分、地分自分を生きる。働くことである。働かせることである。
外発的ではなく、内発的な革命によって、内装を整えることである。
主体性の基点は身の置き所、どこに住むかである。この地球に存在した期間、どこに住んでいたか、どこで暮らしたかこれが基点になる。
この時空の結界これが自分なのである。
自分を生きるとは、今、ここで生きることなのだ。
今日も、明日も、明後日も。

日本人が築き上げてきた、労働観、勤労観は自己実現を図るうえで、重要なものではないか。
それを不便・苦役として考えるのは見当違いである。
労働を苦役とする労働観はキリスト教によってもたらされたものではないか。
日本には、労働を奉公奉仕として、自己実現の道としてとらえる労働観があったのである。
そして公に尽くす、勤労、勤王観を育んだ。
二宮尊徳に見るように働き、働くことを誇りとしたのである。それが勤勉革命を生んだのであった。
西欧科学文明は、機械主義社会を作りだし、硬直化していく。
機械主義は、懐疑的であり、機会主義であり、合理的でアクティブである。
そして成果主義へと発展した。
人間主義は、寛容であり、期待主義であり、反合理的でポジティブである。
そして成長主義へと発展する。
生産性の向上が求められている。そこで問題になるのが仕事観である。
仕事を成された結果に認めるのか、それをする人に認めるのか。
前者は職能給として、後者は職務給として支給されることになる。職能給では一人当たり生産性で、職務給では時間当たり生産性で生産性を捉えることになる。人生を一単位として考え生産性を捉えるならば、一人当たり生産性がその人の人生の成果として問われることになる。
手間をかけるのが仕事である。人手をかける時、仕事が生きるのである。仕事の向こうには人がいるのである。その人を意識しない仕事が過剰生産を生んだ。
人を無視した成果主義が過剰生産、過剰社会を生んだ。
成果主義は「創造的破壊」を御旗として、現状否定、現状破壊を肯定する。サステイナブルディベロプメントにまず求められるのは、成果主義の否定である。
仕事とワークライフバランスがうまく取れない原因の一つに一人当たり生産性を挙げる学者もいる。仕事と人とが分離できないが時間当たり生産性では、人ではなく機械に代替させることもまた他の人に代替させることもできる。
人と仕事を分離できるから人がいなくても、仕事ができればよいのである。
生産性を測る基準は何か。物の生産か人の生産か。経済的価値の生産か、人間的価値の生産か
富国強兵殖産興業を進めるグロ―バル世間では、経済的価値の生産を指向している。
成果主義は経済的価値を、成長主義は、人間的価値を求める。

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